別 紙
千鳥ヶ淵戦没者墓苑の建設経緯



わが国には、戦没者を祀る靖国神社があり、先の大戦の終戦当時までは国を挙げて戦没者に対する 慰霊施設として位置づけられ、何らの問題はなかった。
しかしながら、戦後、対占領軍政策もあり、靖国神社は新しく宗教法人として発足した。昭和21年、新しい憲法の制定により、 政教分離の原則の下に、国が宗教法人である靖国神社の慰霊行事にかかわることが困難となった。
こうした事情から国としての戦没者慰霊施設を独自に造らなければならないと早くから考えていた。
わが国が慰霊施設としての戦没者墓苑を建設した主要な経緯を振り返ってみると、次のとおりである。


1.千鳥ケ淵戦没者墓苑建設の経緯

 (1)"戦没者の墓"建設の気運

  終戦と共に海外からの復員する者が持ち帰った遺骨の他、昭和25年1月には米軍からフィリピン 戦没者遺骨4822柱が送還され、厚生本省、市ヶ谷庁舎等には仮安置遺骨が逐次増加しつつあった。 更に戦場に残された御遺骨の収集、故国送還は国民の切実な思いであり、昭和27年4月対日平和条約 が発効したことに伴い、厚生省による遺骨収集も開始されることとなった。その遺骨収集・故国送還に 伴い、氏名不詳等のため御遺族にお渡しできない御遺骨の増加も予想され、それらを納めるお墓を建 設することは喫緊の問題となって来た。
こうした背景を受けて、次のような諸団体が結成され戦没者の墓を建設する活発な活動が展開された。

  @全日本無名戦没者合葬墓建設会

  政府、民間においては、終戦後、間もなく「墓」建設に関する気運が生じ幣原内閣のときに、占領軍 の了解のもとに墓建設会の準備が進められつつあった。
そして、平和条約の発効に伴い、わが国が独立を回復した2日後の昭和27年5月1日、この会が発足 することになった。
これは政府直接の事業形式をとっていないが、実質的には、官民合同の挙国的組織として、広大な事業 を意図して立ち上がったもので、その主要役員の陣容は次の通りである。
                 堀内一雄
                 須磨弥吉郎(元外交官)
                 橋本龍伍
                 曽根 益(民社党)
                 三宅正一(社会党)  等
                 今村 均
                 河辺正三
                 鈴木孝雄
                 西尾寿造
                 岡村寧次
                 下村 定
                 寺岡謹平      等
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