が就任されていた。
援護会は発足早々から遺族及び終戦時の自決者、戦争裁判による殉難者等の援護、特に恩給、年金の
増額、戦没者の靖国神社への合祀促進及び同神社の国家護持、戦没者墓苑建設の推進について世論を
喚起し、政府当局に働きかける等異常な努力を傾注すると共に、戦没者の慰霊顕彰に努め、度々、大
規模な慰霊法要を行っている。
特に砂田重政会長は、戦没者墓苑の建設が停滞していた昭和32年暮、厚生大臣に強くその建設促進
を求め、戦没者墓苑建設に極めて真剣に取り組まれた。
援護会は昭和43年9月、概ねその使命を果たしたとして解散、遺族援護、戦没者の慰霊顕彰等に関
する懸案事項は、当時既に組織を充実し活動を続けていた、遺族、軍恩、郷友の各会並びに千鳥ヶ淵
戦没者墓苑奉仕会の活動に期待することとしている。
また、援護会が発足当初から発行していた機関紙「援護」も第159号(昭和43年9月)をもって
終刊としている。
援護会は、前記のように広い範囲に亘って援護業務を行っていたが、戦没者の慰霊行事を行うことに
関しては当奉仕会とその目的を同じくしていた。また、千鳥ヶ淵に墓苑が建設された以後は、事務所
を同じくし、常務役員の大部は両者を兼務すると云った特別の関係を持っていた。
当奉仕会初代理事長の額田坦氏は、この全国戦争犠牲者援護会の設立及びその後の会運営の事務上の
中心として活躍しておられる。
(2)"戦没者の墓"建設の推進
幣原内閣時代に、既に「各国の“無名戦没者の墓”に類するものを造ったらどうか」との考え方があ
ったが、昭和27年5月に結成さた全日本無名戦没者合葬墓建設会は、早々に、戦没者の墓を都内豊
島ケ岡に建設することを目標にして、建設資金を全国市町村長に呼びかけ、一戸10円募金を始めて、
戦没者の合葬墓建設の具体化に着手した。
全日本無名戦没者合葬墓建設会の趣意書によれば
「…米国にはアーリントンに無名戦士の墓があり英国にはトラファルガー広場に無名戦士の塔があり仏
国にはパリ凱旋門内に無名戦士の墓があって、何れも全国民により毎年鄭重な祭典が行われておりますが、
それは人道上当然のことで、私どもはわが国にもその必要性ありと考え、東京の各地を視察した結果、
文京区豊島ケ丘を第一候補地と認め、ここに用地四千坪を始め、祭典その他に必要な施設の準備を進め
て参りました。
戦没者は全部靖国神社に合祀すれば足りるではないかと言う人もありますが、同社は主として戦死
軍人軍属の御霊を祀る所で一般戦没者には及ばず、而も御遺骨を埋葬する場所ではありません。その上
神道以外の宗教とは相容れないものがあって友邦の外交使節の参拝を受けることもどうかと存じま
すから、御遺骨の実体、各宗派の立場、外交上の儀礼の点から考えても、靖国神社とは別に霊場を造営
する必要があります。……大霊園を造り毎年春秋に神、仏、基の各宗派によって厳粛な祭典を挙行し、
後代再び斯様な犠牲者を出さないよう、世界悠久の平和を祈念することに致したく…」
(「援護」59号、昭和35.6.5から)
と述べられ、趣旨は明快である。総裁には吉田首相、会長には村上運輸大臣、副会長には草場厚生大臣、
一万田日銀総裁、石川経団連会長、関経連会長が就任しての官民をあげての挙国的な組織となった。
昭和28年12月11日の閣議決定により、国が無名戦没者の墓を建設することとなった為、この建設
会は解散することになったが、既に集められた浄財569万円は国に寄付され、後に千鳥ヶ淵戦没者墓
苑の植栽経費に充当された。
(3)政府による「無名戦没者の墓」建設着手
一方、厚生省においては、早くから「墓建設」に関する研究を進めていたが、昭和28年9月文部省、
法制局と研究会議を開き、戦没者墓苑を造営する場合の問題点特に憲法解釈について慎重に研究し
「支障なし」の結論を得ていた。
昭和28年10月上旬に至り、厚生省は、日本遺族会、日本宗教連盟、海外戦没者慰霊委員会、全日
本無名戦没者合葬墓建設会等の諸団体による会議を厚生省において開催し、各団体は、戦没者の墓を
国が建設することに全員賛同した。ついで11月下旬にはこれらの団体は、こぞって「墓」建設に関
する意見書を政府に提出した。
また、同28年11月12日には、厚生大臣官邸において関係機関、有識者との懇談会を開催し、「戦
没者の墓建設」について全員の同意を得た。
このような「戦没者の墓」建設に関する世論の高まりに伴い、昭和28年12月11日、第3次
吉田内閣は閣議において、「戦没者遺骨の内、氏名判明せざるもの並びに遺族不明のためお渡し
できぬものを、国が建設する「無名戦没者の墓」(仮称)に収納し、国の責任において維持
管理する」との方針が決定された。
厚生省は、「墓」建設に関する閣議決定後、その具体化のための各般の措置を講じた。即ち昭和29
年6月、国会議員、関係官公庁、関係団体等の役・職員の参集を求め、厚生大臣室において第1回の
会合を開き「墓」の名称、性格、敷地等について協議した。
2.建設場所の選定
墓苑の敷地決定については各方面からの要望もあり、色々と論議された。その経緯は概要次の通りで
ある。
墓苑の敷地については、少なくも次のような条件が必要であるとされた。
@全国的な施設であるため、都内にあること。
A全国民が参拝し易いこと。
B静寂、清浄であること。
C適度な広さがあること。
敷地として当初豊島ヶ丘が候補にのぼっていたが、その後検討されたものは次の通りである。
(1)北の丸森林公園
ここは、その後、単に北の丸公園と呼ばれるようになった。敷地を検討する当時は、近歩1,近歩
2聯隊の焼跡地で、営庭は野球場になっていたり、残った営舎には学徒援護会が入っていて、その
移転先が見当たらないため、間に合いかねた。場所としては、最適地であったが、前記のようなこ
とで選外に洩れた。その後、武道館、科学技術館等、各種の文化施設が出来ている。
(2)二重橋前楠公銅像付近
参拝に都合のよいところである。しかし、ちょっと締まらない。締めようととすると、あの広大な皇居前の景
観に支障が起きる懸念がある。
(3)三宅坂、半蔵門付近
これも、一等地である。旧陸軍衛戍病院の後に航空本部のあったところ。景観、環境ともに佳良で地積も申し
分ないが、大蔵省から問題にされず、今は、最高裁や、国立劇場になっている。
(4)英国大使館前(短冊形の土地)
設計はむずかしいが、シンクガーデン式設計にしたら一つの候補地。ラトヴイヤにこのような墓地があり妙案
と思われたが、日本で初めてのこの試みが、古風な日本人の思考に果たして合うか、どうかが問題であった。
(5)護国寺墓地
ここには、広大な陸軍墓地があり、無縁仏も少なくなかったが、その改装や、墓守などの面倒な点も予想され
る難があった。
(6)埼玉県越生墓苑
これは、県知事から厚生大臣に進言され、相当強い要望であった。ここは、緑に映えた丘陵で、関八州を俯瞰
し、東方には筑波山を望む景勝の地であったが、附近に小流があるだけで水が少ない。そして郊外であること
が致命的な難点であった。
(7)桜ヶ丘聖跡記念碑附近
当時は、公害の影響も少なく、多摩の清流に臨み、富士を背景とした絶好の場所で、戦没者のお気に入ると思
われたが、都心から遠いのが難であった。
(8)靖国神社境内
ここについては、遺族会から強い要望があった。元来、神社の境内に墓をおくということは殆どない。明治
神宮と桃山御陵など随分離れている。戦後、護国神社の境内に、引き取り手のない、御遺骨を境内に建立し
た忠霊塔内に奉安した例もあるが、これなどは変則と言える。
ある元大将は、大村益次郎の銅像を撤去して、その附近に造れば参拝者も便利であると言われたが、神社側
の案は本殿裏の心字池附近とのことであり、そこは余りにも狭いのと、国の施設を宗教法人の神社境内にお
けないという致命的問題点があった。
なお宗教団体の関係者は、各宗教、宗派が思い通りに儀式を行うためには神社以外の地が良いという意見で、
その意向は可成り強いものであった。
(9)現在の千鳥ヶ淵に決定
以上の通り、長期に亘って、敷地選定について議論されたが、昭和31年12月4日、閣議において、千鳥
ケ淵の現在地に決定された。
現在地の利点としては次の点があげられる。
@全国から九段に来る人々の参拝に便利である。
A皇居に近く、千代田の杜や、北の丸の緑を借景しうる。
B千鳥ケ淵の水が豊かで良い。
3.名称の決定
お墓の名称についても色々と議論があった。戦没者墓苑奉仕会元理事長の美山氏(故人)の生前の回顧談を
要約すれば次の通りである。
(1)昭和28年12月における閣議決定
この閣議において「戦没者の墓」を作ることを決定されたが、この時の名称は「無名戦没者の墓(仮称)」
とされている。
(2)昭和29年6月、厚生省における協議会
この会において、引揚援護局長は、
@無名戦没者の墓
A無名戦士の墓
B海外戦没者の墓
の三案を提示し、日本遺族会に依頼して各支部の意見を徴したが、まだ回答を得ていない、という説明が
あった。
この時、会議関係者の意見としては、「海外」の言葉は少し局面を限定し過ぎる。また「無名戦士」とい
うのは、戦士が軍人であり、軍人軍属と言った人々を包括しにくい、ということで一応「無名戦没者の墓」
という仮称のもとに、当面進むこととされた。
(3)「千鳥ケ淵戦没者墓苑」に決定
前記のような経緯を経て、33年8月、現在の位置に墓苑建立の地鎮祭が行われることになったが、この
時も依然として「無名戦没者の墓」という仮称のままの名称であった。
しかし、半年後の34年にはいよいよ竣工式を挙げる段階となり、正式名称を決めなければならないこと
になった。
かくして、関係者の間に協議が進められ「国立墓苑」の案が提案されたが賛同が得られず、「千鳥ケ淵墓
苑」の案も出されたが、結局「千鳥ケ淵戦没者墓苑」と修正決定された。
この間、各方面において論議された二、三の問題について紹介すると、
〇“墓”と“苑”。
墓と言うと直ちに霊と結びつけられ易く、必然的に宗教色の濃いものと受け取られ易いが、墓苑となる
と、そのような感じを薄めるので墓苑という名称が良い。
〇次に、“無名”という言葉が各方面の共鳴を得られなかったのは
この言葉は国際慣行上は通用し易いが、日本人として、特に遺族の間には、どうもぴったりとなじめない
ということと、また“無名”が有名の反対で、感じが良くないという意見があった。更に又、“無名”と
いうと、日本人の感覚としては、どうしても“無縁仏”と結びつき易い。遺族のうちでは「うちの子は、
はっきりした名前があるのに無名とはけしからん」と言われた方もあったりした。
参拝者の中には今でも“無縁仏”という人もあるが、それは心得違いである。
ここに納められているお骨は、国に殉じた戦没者のもので、その縁者は国家であり、国家が責任をもって
お守りすべきものである。
以上のような経緯を経て、昭和34年3月13日(竣工式直前)の閣議において「千鳥ケ淵戦没者墓苑」
と命名することに決定された。
しかし、竣工式の翌日の3月29日付のジャパン・タイムスには、
“CHIDORIGAFUCHI
UNKNOWN SOLDIERS TOMB”
「千鳥ケ淵無名戦士の墓」と出ており、国際慣例として、通り易い言葉を使ったものと思われる。
4.この墓苑の性格に期待されたもの
この戦没者墓苑を建設するのあたり、国が建設する戦没者墓苑は、遺族にお渡しできない御遺骨を納骨
する施設ではあるが、同時に、もう一面には広く国民一般が全戦没者に対して慰霊の誠を捧げる所謂
「無名戦士の墓」的な施設としようする意識が関係者の間に強かった。特に前述のように全日本無名戦
没者合葬墓建設会は極めて明快にこの目標を掲げた。しかし、戦没者墓苑の建設については合意ができ
たものの、この墓苑を「無名戦士の墓」的なものと性格づけすることは多くの人達からその必要性を認
められながらも、諸般の事情から明確な形での合意に至らず、今日に及んでいる。
これらの戦没者墓苑の性格に関連する主要な記録・発言等を拾ってみると
(1)各国の「無名戦士の墓」を意識して建設
@全日本無名戦没者合葬墓建設会(総裁:吉田首相)の計画
「…諸外国にある無名戦士の墓に相当する施設を建設し外国の元首、使節等
も公式に訪問し得るものとすることを目標」(続々・引揚援護の記録 p265)
(注)「続々・引揚援護の記録」 厚生省編(昭和38.3.1)
A厚生省は各国「無名戦士の墓」の資料を収集し参考とした
厚生省は、「無名戦没者の墓」を計画するにあたって、国会図書館に依頼し、米、英、仏、伊及び
中華民国(台湾等の各国の協力を得て「無名戦士の墓」に関する資料を収集して参考とした。
(続々・引揚援護の記録 P261)
B戦没者墓苑建設閣議決定時(昭和28.12.11)の名称
戦没者墓苑の建設の閣議決定に際し、「無名戦没者の墓」(仮称)とした。
(続々・引揚援護の記録 P258)
(注)「戦士」は将兵に限定される、軍属等の遺骨も当然に納められるので「戦没者」の表現とした。
C国立無名戦没者墓苑設計方針(引揚援護局長)(昭和31.11.30)
「1−(4)諸外国の国立墓苑も十分参考にする。」としている。
(2)全戦没者を象徴する施設に
@厚生大臣官邸における「戦没者墓苑懇談会」(昭和28.11.12)
山県勝美大臣「限られた物的収容施設でも精神的には、戦没者全体を含んでいると云うことは神経質に
考えなくてもそうなって行くんじゃ無いか、海外をとりただ戦没者でよいではないか」(続々・引揚援護の記録 P259)
A厚生大臣室における「無名戦没者の墓」に関する打合会(昭和29.6.16)
「全戦没者の墓として、全国民が詣でるものでありたい」(多数意見)(続々・引揚援護の記録 P259)
B参議院社会労働委員会における小林厚生大臣答弁(昭和31.12.12)
「…南方のある場所でたくさんの人が戦死された。このとき持って参りましたそれらの無名戦没者の遺骨とい
うものは、たとえそれらが五十体でありましても、そこにたくさんの人たちが戦没されたものを代表して持っ
て参ったのでございます。従いまして今お聞きになりましたような、それは五十体は五十体の墓だという意
味ではなくてそれらの地方におきまする全部を代表して持って参りましたものでございまするから従いまして
今お聞きの通りに、それらはそこらにありますその他のたくさんの人の代表の遺骨として無名戦没
者の墓として考えて行きたい」(議事録より)
C参議院社会労働委員会における山下義信議員陳述(昭和31.12.12)
「…やはりお墓であると同時に戦没者の象徴の記念碑たる性格を帯びざるを得ないと私共も考える…」(議事録より)
D全国戦争犠牲者援護会機関誌「援護」(昭和32.1.15)
堀内一雄理事長(衆議院議員)
「…其の(墓苑の)性格は…どこまでも広く太平洋戦争の全犠牲者を対象とせられたい念願
であります。…総て太平洋戦争のため内、外地に亘り犠牲となって死没した全日本人を対象とす
ることが至当…」
E千鳥ケ淵戦没者墓苑竣工式典の趣旨について閣議報告(昭和34.3.13)
「…みぎの追悼式は、この収納遺骨によって象徴される支那事変以降の戦没者に対して行う
ものである。」
(続々・引揚援護の記録P265)
このように、戦没者墓苑建設過程の中で、多くの関係者が、この千鳥ヶ淵戦没者墓苑を全戦没者の象徴として、
所謂「無名戦没者の墓」としての施設と考えようとしたことが伺える。
しかし、昭和39.2.21の衆議院予算委員会における受田議員の質問に対し、厚生省国立公園部長は
「…いまのところでは、完全に無
名戦士の墓というふうに公の宣言をする段階に至っておらない。…いまの ところにおきま
しては全戦没者の象徴的な墓所であるというところまでは決定しないまま今日に至っている。」と答弁して
いる。また、更に受田議員の「英霊全体の象徴的なお墓であると考えるべきではないか」との追求に「…
実体としては先生のおっしゃるようなものに非常に近くなりつつあることは事実だと思い
ます。…」と歯切れの悪い答弁をしている。
このような経過で、千鳥ケ淵戦没者墓苑が、「無名戦士の墓」として国の公的な認識が確定しないまま今日
に至っていることは誠に残念なことである。
また、このような背景があってのことと考えられるが、全日本無名戦没者合葬墓建設会が当初に意図したよ
うな、外国からの公的使節等の千鳥ケ淵戦没者墓苑への参拝が過去の記録にあまり多く見受けられないこと
は誠に残念なことである。
(3)戦没者墓苑創建後における関係者意見
このように、千鳥ヶ淵戦没者墓苑を全戦没者の墓として或いは「無名戦士の墓」としての性格の確立をされ
ないまま今日に至っているが、戦没者墓苑創建後もこれに関連する意見等は続いており、その主要なものを
拾ってみると、
@千鳥ヶ淵戦没者墓苑奉仕会安井会長から厚生大臣へ(昭和36年3月)
「太平洋戦争後千鳥ヶ淵戦没者墓苑を建設するに到れる経緯(幣原内閣のとき外国の無名戦士の墓に類する
ものを造る趣旨)に鑑み、今後来朝する外国元首、首相等には等墓苑に参拝方お取り計らい下されたく…」
「墓の性格は…外国の元首、大公使等が参詣出来る無名戦士の墓のようなものを造ることが起因
である」
A全日本戦争犠牲者援護会機関紙(「援護」135号(昭和41.10.15))
「…(千鳥ヶ淵戦没者墓苑は)アメリカのアーリントン、イギリスのウエストミンスターアベー、フラ
ンスパリの凱旋門における「無名戦没者の墓」と同じ性格の施設…」
B政府主催拝礼式における鈴木厚生大臣追悼の辞(昭和40.3.28)
「…戦没者墓苑は、かっての大戦において散華せられた全戦士を象徴する御遺骨が永久の安らぎについ
ておられるのであります」(機関誌「援護」125号)
C拝礼式における鈴木厚生大臣の式辞(昭和41.3.28)
「この千鳥ヶ淵戦没者墓苑には、各戦域における全戦没者の象徴的遺骨を地下の納骨室に納めてあり
ます…」(機関紙「援護」135号」)
D園田厚生大臣の「墓前年頭所感」(昭和43.1.1)
「…この墓の陶棺の中にある遺骨壺には、各主要戦場のそれぞれの全戦没者を象徴する分骨が納めてあ
ります。したがいましてこの墓は「全戦没者の墓」としての国家施設であります。」(機関紙「千鳥ケ淵」昭和43.1.1)
これらを通じて眺めると、国は「全戦没者の墓」、「無名戦士の墓」 としての明言してはいないが、
関係者の間では、何とかそのような性格の施設として理解しようとする気持が強く感じられる。